どうもこんにちは!廃墟心霊オカルト編集長のヒビヤです。

前回我が母なる川、荒川の上流に位置する埼玉県の廃村、岳(たけ)集落の真実を追求した記事を書いたが今回は岳集落からさらに西に進み群馬県上野村へのルート途中にある秩父鉱山の社宅群を紹介しようと思う。

所謂ニッチツ鉱山だ。

【廃村探索】廃村を流れる沢でいつか大イワナを釣ってみたい!秩父浦山の岳集落、茶平集落探検記!

こちらは荒川上流部で合流する中津川へ流れ込む支流、小倉沢と言う沢沿いに古くからある鉱山村の跡地だ。跡地とは言え現在も一部稼働はしておりつい最近まで最後の住人もいたようだ。

往時は2千人を超える鉱山関係者が住み一つの集落を形成していた。ニッチツ村などと呼ばれているが正しくは小倉沢集落と言う。

秩父鉱山で働く大勢のひとたちのためにニッチツが用意した集落と言うことだ。

そのため診療所や学校、郵便局、娯楽施設を兼ねた講堂、共同浴場などがあり不気味な雰囲気と言うよりは往時の事を想像してみるとなんとなく厳しさや辛さの中にも小さな生活の楽しさがあったような気さえする不思議な空間だ。

泥まみれになって働き、夕方になれば集落に一つしかない共同浴場で汗を流し、一杯やりながら集会所で語らい、一家団欒の生活が鉱山とともにある暮らしである。ピークは60年代、高度経済成長期のまっただ中であろう、平凡な暮らしながら見え隠れする明るい未来に汚れた顔をくしゃくしゃにして笑っている素敵な笑顔が思い描かれる。

日本一届けるのが大変な郵便局。

今で言うコンビニの役割を果たしていた商店。

みな幸せな人生のスタートだったに違いない。

仕事の汗を流した共同浴場。奥には家族風呂があるらしい。

ウホッ!!

今はもう動かないたばこの古自販機。

多目的な講堂。福利厚生の一環で映画が無料で観られたそうだ。

標高800メートル以上の高所に位置し、目の前の美しい沢の流れで釣りをする人もいたかもしれない。なんと言っても沢沿いに社宅があるのだ。釣りをしない理由がない。

大水が出たら恐ろしいほどに沢沿いの社宅。

股間はフニャフニャのくせに想像力だけは人一倍豊かな諸兄たちが想像するような娯楽もないのだ。釣りは最高の贅沢ではないだろうか。

と思っていたら、真偽のほどはさておき、このような情報があった。

一番多かった病気は性病!

これは諸兄の類い希なる想像力が勝ってしまった形だ。フニャフニャのくせに。

ニコニコニュース

しかしそんな見え隠れしていた明るい未来もオイルショックの影響だろうか、78年には採算が取れないため金属の採掘を中止してしまった。

一部稼働はしているものの江戸時代から続く鉱山の事実上の廃坑、閉山である。

詳しくはわからないが恐らくそのあたりからここで働いていた人たちの離村が始まったのだろう。

従業員やその家族からすれば突然仕事がなくなるのだ。

家財道具を持って出る手段も余裕もなく、怒りと不安だけを抱えて出て行ったため、残された家々には思い出の生活用品がそのままになっているのではないだろうか。

この集落に唯一あった小倉沢小中学校が昭和60年に廃校となったことを考えると少なくともそのあたりまでは人々の日常があったようだ。

小倉沢小中学校の校門。

校庭。

校庭へと続く沢を渡る橋。

彼らがその後どうなったのかわからないが、2011年頃には最後の住人一人と犬が一頭いたようだが現在は恐らく完全な無人になっている。

ざっくりとだがwikipediaによると沿革は以下の通りだ。

1600年頃 秩父鉱山発見。甲斐武田氏が金・砂金を採掘。
1765年 金採掘のため平賀源内が入山。
1910年 東京の柳瀬商工株式会社が買収。鉄鉱開発を行う。
1916年 鉱山 – 皆野間に架空索道を建設。
1937年 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。
1950年 日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。
1960年代 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱する。
1969年 珪砂の採掘を開始。
1978年 金属採掘を中止。

この集落が事業の拡大とともに拡張されたことがよくわかるのがとにかく建物が統一されておらず平屋長屋のようなものから木造のアパート、比較的近代的なアパートとレパートリーが豊富なことだ。

場所も集中しておらずチンチンバラバラ。

とにかく慌てて空いている場所にとりあえず建てた、そんな雰囲気がある。

不明な点があるのだが冒頭に小倉沢沿いに、と書いたが集落内の橋には神流川と書いてある。群馬県を流れる神流川とは尾根を挟んで反対側になるため別物だと思われるが山岳地図を見ると沢の上流は小倉沢と記されているが下流は神流川と記されている。

訳がわかんないよ!

あともう一つ、小倉沢小中学校が廃校になったのが昭和60年、仮に小学校をその時に卒業したとしたらワタシとそう歳が変わらないはずである。

しかし元住人や従業員の情報が全く無いのだ。当時の暮らしについてのインタビューなどあってもようさそうなものだが、全く無い。

謎である。

建物内には侵入していないが15年近く経過した今だから白状すると、お気づきかもしれないが講堂のある敷地内など私有地に侵入した。ほぼ無人だろうと踏んで侵入したのだが、

思いの外人が多い!

コソコソと低い姿勢を取り周囲を見回し、さながら銃を持って逃げ惑うブルース・ウィリスのように写真を撮ったのを覚えている。

診療所の写真が無いので場所を特定できなかったのか、写真を撮らなかっただけなのか記憶が定かではないが手術台や手術灯などもありなかなかのものだ。

検索すると沢山写真が出てくるので興味のある方は是非見ていただきたい。

現代に残る異空間である。

それでは今日も、No Tsuri-ba! No Life!

https://tsuri-ba.net/wp-content/uploads/2019/06/nittitsu.jpghttps://tsuri-ba.net/wp-content/uploads/2019/06/nittitsu-150x150.jpgtsuri-ba釣りTALKニッチツ鉱山,奥秩父,小倉沢小中学校,小倉沢集落,廃墟,廃村,秩父イワナ,秩父鉱山どうもこんにちは!廃墟心霊オカルト編集長のヒビヤです。 前回我が母なる川、荒川の上流に位置する埼玉県の廃村、岳(たけ)集落の真実を追求した記事を書いたが今回は岳集落からさらに西に進み群馬県上野村へのルート途中にある秩父鉱山の社宅群を紹介しようと思う。 所謂ニッチツ鉱山だ。 https://tsuri-ba.net/?p=20280 こちらは荒川上流部で合流する中津川へ流れ込む支流、小倉沢と言う沢沿いに古くからある鉱山村の跡地だ。跡地とは言え現在も一部稼働はしておりつい最近まで最後の住人もいたようだ。 往時は2千人を超える鉱山関係者が住み一つの集落を形成していた。ニッチツ村などと呼ばれているが正しくは小倉沢集落と言う。 秩父鉱山で働く大勢のひとたちのためにニッチツが用意した集落と言うことだ。 そのため診療所や学校、郵便局、娯楽施設を兼ねた講堂、共同浴場などがあり不気味な雰囲気と言うよりは往時の事を想像してみるとなんとなく厳しさや辛さの中にも小さな生活の楽しさがあったような気さえする不思議な空間だ。 泥まみれになって働き、夕方になれば集落に一つしかない共同浴場で汗を流し、一杯やりながら集会所で語らい、一家団欒の生活が鉱山とともにある暮らしである。ピークは60年代、高度経済成長期のまっただ中であろう、平凡な暮らしながら見え隠れする明るい未来に汚れた顔をくしゃくしゃにして笑っている素敵な笑顔が思い描かれる。 日本一届けるのが大変な郵便局。 今で言うコンビニの役割を果たしていた商店。 みな幸せな人生のスタートだったに違いない。 仕事の汗を流した共同浴場。奥には家族風呂があるらしい。 ウホッ!! 今はもう動かないたばこの古自販機。 多目的な講堂。福利厚生の一環で映画が無料で観られたそうだ。 標高800メートル以上の高所に位置し、目の前の美しい沢の流れで釣りをする人もいたかもしれない。なんと言っても沢沿いに社宅があるのだ。釣りをしない理由がない。 大水が出たら恐ろしいほどに沢沿いの社宅。 股間はフニャフニャのくせに想像力だけは人一倍豊かな諸兄たちが想像するような娯楽もないのだ。釣りは最高の贅沢ではないだろうか。 と思っていたら、真偽のほどはさておき、このような情報があった。 一番多かった病気は性病! これは諸兄の類い希なる想像力が勝ってしまった形だ。フニャフニャのくせに。 ニコニコニュース しかしそんな見え隠れしていた明るい未来もオイルショックの影響だろうか、78年には採算が取れないため金属の採掘を中止してしまった。 一部稼働はしているものの江戸時代から続く鉱山の事実上の廃坑、閉山である。 詳しくはわからないが恐らくそのあたりからここで働いていた人たちの離村が始まったのだろう。 従業員やその家族からすれば突然仕事がなくなるのだ。 家財道具を持って出る手段も余裕もなく、怒りと不安だけを抱えて出て行ったため、残された家々には思い出の生活用品がそのままになっているのではないだろうか。 この集落に唯一あった小倉沢小中学校が昭和60年に廃校となったことを考えると少なくともそのあたりまでは人々の日常があったようだ。 小倉沢小中学校の校門。 校庭。 校庭へと続く沢を渡る橋。 彼らがその後どうなったのかわからないが、2011年頃には最後の住人一人と犬が一頭いたようだが現在は恐らく完全な無人になっている。 ざっくりとだがwikipediaによると沿革は以下の通りだ。 1600年頃 秩父鉱山発見。甲斐武田氏が金・砂金を採掘。1765年 金採掘のため平賀源内が入山。1910年 東京の柳瀬商工株式会社が買収。鉄鉱開発を行う。1916年 鉱山 - 皆野間に架空索道を建設。1937年 日窒鉱業開発株式会社が買収。3年後本格操業開始。1950年 日窒鉱業株式会社(現在のニッチツ)設立。1960年代 亜鉛、磁鉄鉱など採掘、最盛期には年50万トンを出鉱する。1969年 珪砂の採掘を開始。1978年 金属採掘を中止。 この集落が事業の拡大とともに拡張されたことがよくわかるのがとにかく建物が統一されておらず平屋長屋のようなものから木造のアパート、比較的近代的なアパートとレパートリーが豊富なことだ。 場所も集中しておらずチンチンバラバラ。 とにかく慌てて空いている場所にとりあえず建てた、そんな雰囲気がある。 不明な点があるのだが冒頭に小倉沢沿いに、と書いたが集落内の橋には神流川と書いてある。群馬県を流れる神流川とは尾根を挟んで反対側になるため別物だと思われるが山岳地図を見ると沢の上流は小倉沢と記されているが下流は神流川と記されている。 訳がわかんないよ! あともう一つ、小倉沢小中学校が廃校になったのが昭和60年、仮に小学校をその時に卒業したとしたらワタシとそう歳が変わらないはずである。 しかし元住人や従業員の情報が全く無いのだ。当時の暮らしについてのインタビューなどあってもようさそうなものだが、全く無い。 謎である。 建物内には侵入していないが15年近く経過した今だから白状すると、お気づきかもしれないが講堂のある敷地内など私有地に侵入した。ほぼ無人だろうと踏んで侵入したのだが、 思いの外人が多い! コソコソと低い姿勢を取り周囲を見回し、さながら銃を持って逃げ惑うブルース・ウィリスのように写真を撮ったのを覚えている。 診療所の写真が無いので場所を特定できなかったのか、写真を撮らなかっただけなのか記憶が定かではないが手術台や手術灯などもありなかなかのものだ。 検索すると沢山写真が出てくるので興味のある方は是非見ていただきたい。 現代に残る異空間である。 それでは今日も、No Tsuri-ba! No Life!手は震え、動悸も止まらない釣りWebフリーマガジン