こんにちわ!ツリーバライターのイシザキです!

最近は釣魚料理男子になるべく料理に勤しんでいるわけですが、ちょっと心配事があります。

麺しか食ってない!

魚と同じく、人間の食性というのも環境というものが大きく左右するのだろう。我がシェアハウスは一つのキッチン、一つのコンロを共有しており、一人が長時間キッチンを占有するのはご法度。さらに、冷蔵庫、冷凍庫に食材を入れまくるのもご法度。そんな環境で僕は暮らしています。

その環境に順応した結果、5分以内に作って食べられる麺類が主食となってしまったわけなんですが・・・・

飯食いたい。

日本人主食とは!ラーメンでも焼きそばでもパスタでもヤムイモでもない!

白飯だ!

ということで、今回は日本人の心を取り戻すべく、白飯に合うご飯のお供を作ろうというのが出発点。

今まで天ぷらやらユーリンユイやら、ご飯に合うオカズを作ってきましたが、よく考えると「ご飯のお供」という言葉から連想するイメーシとは少しズレる気がする。

「ご飯のお供」といった場合、あくまでご飯が主役。お供を1食べるならご飯を10食べれるような料理を連想する。

それに対して天ぷらやユーリンユイは、どちらかというと主役としての感が否めない。確かにご飯は食べたくなるけれど、「お供のご飯」といった印象を覚える。

今回はご飯を食べて日本人の心を取り戻す!というのが趣旨なので、「お供のご飯」料理ではなく、「ご飯のお供」を作りたい!

何を作ろうか・・・と考える間も無く、僕には思い浮かんだ料理があります!

佃煮!

以前、中央区佃にある佃公園でハゼ釣りをした時に佃エリアの釣り場を散策していた時。
【ハゼ釣り2017】佃煮の里。岸壁に群がるハゼをイトコンで狩る!(佃ハゼ釣り①)

佃エリアを徘徊中、いかにも歴史を感じさせる店がちらほら。

佃煮屋。地名からもすぐ分かるように、中央区佃は佃煮の歴史にとって重要なポジションを占める場所。

本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢とともに堺にいたようで、命の危機を感じた家康は岡崎城へ帰城します。帰路の途中、現在の摂津の神崎川で足止めをくらった時に現れたのが佃村の漁師達。彼らは川を渡るための船と道中食の小魚煮を提供し、家康の帰城を助けたそうです。

その後、家康は佃村にいる漁師を呼び寄せ、現在の中央区佃にある干潟を埋め立て住まわせ、漁業権を与えました。現在の月島、勝どき、豊海が出来上がって現在に至るわけですが、当時は東京湾に面する漁業で盛んな場所だったんですね。

佃の漁師たちは塩、醤油で雑魚を煮詰めて保存性の高い佃煮を作り上げました。この「保存性が高い」というのがポイントで、冷蔵技術に乏しかった時代に船内食や自家用の保存食として活用されていたそうです。その後佃煮は売り出され、江戸庶民の間に広まり、参覲交代の大名達がお土産として各地に持ち帰り、全国に広まったそうです。

ご飯のお供と言えば佃煮!という現在の佃煮のポジションはこういう経緯で形作られたんですね~

以前、佃で釣りをした時は幸運にもハゼフィーバー。佃煮を作ろうとも思ったのですが・・・「なんか面倒くさそう」という理由で却下。全ハゼ全揚げで美味しくいただきました。

話が長くなりましたが、今回の目標は

佃煮の聖地・佃堀のハゼで佃煮を作る!

岸壁のハゼカーニバル、まだ継続中かな・・・

→食材調達編:佃煮食材調達!不動ハゼ釣り攻略の救世主は・・・まさかのザリガニ?!

No Tsuri-ba! No Life!

https://tsuri-ba.net/wp-content/uploads/2017/09/IMG_5558.jpghttps://tsuri-ba.net/wp-content/uploads/2017/09/IMG_5558-150x150.jpgいしぽよ釣りTALK中央区佃,佃公演,佃煮,料理こんにちわ!ツリーバライターのイシザキです! 最近は釣魚料理男子になるべく料理に勤しんでいるわけですが、ちょっと心配事があります。 麺しか食ってない! 魚と同じく、人間の食性というのも環境というものが大きく左右するのだろう。我がシェアハウスは一つのキッチン、一つのコンロを共有しており、一人が長時間キッチンを占有するのはご法度。さらに、冷蔵庫、冷凍庫に食材を入れまくるのもご法度。そんな環境で僕は暮らしています。 その環境に順応した結果、5分以内に作って食べられる麺類が主食となってしまったわけなんですが・・・・ 飯食いたい。 日本人主食とは!ラーメンでも焼きそばでもパスタでもヤムイモでもない! 白飯だ! ということで、今回は日本人の心を取り戻すべく、白飯に合うご飯のお供を作ろうというのが出発点。 今まで天ぷらやらユーリンユイやら、ご飯に合うオカズを作ってきましたが、よく考えると「ご飯のお供」という言葉から連想するイメーシとは少しズレる気がする。 「ご飯のお供」といった場合、あくまでご飯が主役。お供を1食べるならご飯を10食べれるような料理を連想する。 それに対して天ぷらやユーリンユイは、どちらかというと主役としての感が否めない。確かにご飯は食べたくなるけれど、「お供のご飯」といった印象を覚える。 今回はご飯を食べて日本人の心を取り戻す!というのが趣旨なので、「お供のご飯」料理ではなく、「ご飯のお供」を作りたい! 何を作ろうか・・・と考える間も無く、僕には思い浮かんだ料理があります! 佃煮! 以前、中央区佃にある佃公園でハゼ釣りをした時に佃エリアの釣り場を散策していた時。 →【ハゼ釣り2017】佃煮の里。岸壁に群がるハゼをイトコンで狩る!(佃ハゼ釣り①) 佃エリアを徘徊中、いかにも歴史を感じさせる店がちらほら。 佃煮屋。地名からもすぐ分かるように、中央区佃は佃煮の歴史にとって重要なポジションを占める場所。 本能寺の変が起きた時、徳川家康はわずかな手勢とともに堺にいたようで、命の危機を感じた家康は岡崎城へ帰城します。帰路の途中、現在の摂津の神崎川で足止めをくらった時に現れたのが佃村の漁師達。彼らは川を渡るための船と道中食の小魚煮を提供し、家康の帰城を助けたそうです。 その後、家康は佃村にいる漁師を呼び寄せ、現在の中央区佃にある干潟を埋め立て住まわせ、漁業権を与えました。現在の月島、勝どき、豊海が出来上がって現在に至るわけですが、当時は東京湾に面する漁業で盛んな場所だったんですね。 佃の漁師たちは塩、醤油で雑魚を煮詰めて保存性の高い佃煮を作り上げました。この「保存性が高い」というのがポイントで、冷蔵技術に乏しかった時代に船内食や自家用の保存食として活用されていたそうです。その後佃煮は売り出され、江戸庶民の間に広まり、参覲交代の大名達がお土産として各地に持ち帰り、全国に広まったそうです。 ご飯のお供と言えば佃煮!という現在の佃煮のポジションはこういう経緯で形作られたんですね~ 以前、佃で釣りをした時は幸運にもハゼフィーバー。佃煮を作ろうとも思ったのですが・・・「なんか面倒くさそう」という理由で却下。全ハゼ全揚げで美味しくいただきました。 話が長くなりましたが、今回の目標は 佃煮の聖地・佃堀のハゼで佃煮を作る! 岸壁のハゼカーニバル、まだ継続中かな・・・ →食材調達編:佃煮食材調達!不動ハゼ釣り攻略の救世主は・・・まさかのザリガニ?! No Tsuri-ba! No Life!手は震え、動悸も止まらない釣りWebフリーマガジン