こんにちわ!ツリーバライターのイシザキです!

今回は荒川事件簿は、100年以上前の明治期に起きた事件。

もはや事件簿というよりは「荒川の歴史」といった方がしっくりくるのだが、現在我々がセコセコ釣りに勤しむ「荒川」ができた根源ともなる出来事。

時代は明治から大正に移りつつある明治43年(1910年)。

当時、日本では帝国主義思想が高まりを見せ、日露戦争にも勝利しました。大陸進出への流れが強まる中、1909年10月26日、伊藤博文がハルビンで暗殺されます。その約1年後の1910822日、韓国併合条約を調印されるわけですが・・・韓国併合という歴史上の大事件は僕でも知っています。ですが、当時関東に住む人々にとっては「それどころじゃぁない!」。そう思わせるような大惨事に襲われていたことを知る人は少ないのではないでしょうか。

関東大水害

常識だったらすみませんが、僕はワード自体初耳だったし、こんなことがあったなんて初めて知りました。

この年は8月にもかかわらず、未だ梅雨前線が停滞しており、85日から前線の影響で雨が降り続いていました。それに加え、11日には房総半島を台風がかすめ通ります。。さらにさらに14日には、沼津に台風が上陸し、甲府から群馬県西部にかけて通過。度重なる台風により関東一帯は集中的な豪雨に見舞われ、各地で土砂災害が発生。堤防は決壊し、荒川を含めた多くの河川は土砂・家屋、そして人のあらゆるものを飲み込みます。荒川は名実ともに「荒ぶれる川」と化し、当時の人達の生活を破壊しました。

死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796


南千住浸水の惨状
明治43年の大水害(1910年8月11日) | 災害カレンダー – Yahoo!天気・災害


明治43年(1910年)、東京下谷区の浸水状況
明治43年の大水害 – Wikipedia

東京での被害も凄まじく、水が引いて地面が見えるようになったのは12月になってからだったといいます。

とてつもない被害を目の当たりにし、明治政府は「臨時治水調査会」を設置し、荒川改修計画を策定。現在心霊スポットとして有名な”赤水門”(旧岩淵水門)も荒川による洪水被害を防ぐべく、1924年に着工し1924年に完成させました。現在では新しい”青水門”に役目を譲り、幽霊に出会える貴重なスポットとして重宝されています。

荒川放水路事業は、1913年~1930年まで17年の歳月をかけ、多くの犠牲者を出しながら完了。幅約500m、旧岩淵水門から中川河口までの全長22kmにも及ぶ荒川放水路の完成により旧岩淵水門から下流の「荒川」は隅田川と名前を変え、現在では荒川放水路が「荒川」として人々に親しまれています。

・・・・・

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そもそも僕は数ヶ月前までは「荒川ってどこだっけ?・・・こっち?あっ、これは隅田川か・・・」ぐらいのレベルだったんで、隅田川が昔は「荒川」だったなんてことはほんの最近知りました。何回か隅田川と荒川放水路で釣りをしてきましたが、昔はあの水量を現隅田川一本で処理していたなんて信じがたいですね・・・・。実際ほぼ毎年のように氾濫が起きており、川沿いの民家屋根には船が常時設置してあったそうです。

我がツリーバ編集長も含め、荒川アングラーに「何か」を感じさせるのも、「荒ぶれる川」への恐・怖・畏のいろんなオソレを感じさせる荒川の歴史故なのかもしれません。

現在では整備も進んで関東大水害なんて事態は予想できないですが、そもそも災害は人の予想を超えて起きるものです。東日本大震災もそうだったように。

「荒ぶれる川」への敬意を忘れずも、楽しく荒川釣りを楽しみたいものですね。これからは拝んでから釣ります。

荒川よ、鎮まりたまへ。

洪水ハザードマップ東京都建設局

No Tsuri-ba! No Life!

https://tsuri-ba.net/wp-content/uploads/2017/09/a3f1c0e791f3e9b2c4bcca8195e7b432.jpghttps://tsuri-ba.net/wp-content/uploads/2017/09/a3f1c0e791f3e9b2c4bcca8195e7b432-150x150.jpgいしぽよ荒川のシーバスフィッシング釣りTALK事件,洪水,荒川,赤水門こんにちわ!ツリーバライターのイシザキです! 今回は荒川事件簿は、100年以上前の明治期に起きた事件。 もはや事件簿というよりは「荒川の歴史」といった方がしっくりくるのだが、現在我々がセコセコ釣りに勤しむ「荒川」ができた根源ともなる出来事。 時代は明治から大正に移りつつある明治43年(1910年)。 当時、日本では帝国主義思想が高まりを見せ、日露戦争にも勝利しました。大陸進出への流れが強まる中、1909年10月26日、伊藤博文がハルビンで暗殺されます。その約1年後の1910年8月22日、韓国併合条約を調印されるわけですが・・・韓国併合という歴史上の大事件は僕でも知っています。ですが、当時関東に住む人々にとっては「それどころじゃぁない!」。そう思わせるような大惨事に襲われていたことを知る人は少ないのではないでしょうか。 関東大水害 常識だったらすみませんが、僕はワード自体初耳だったし、こんなことがあったなんて初めて知りました。 この年は8月にもかかわらず、未だ梅雨前線が停滞しており、8月5日から前線の影響で雨が降り続いていました。それに加え、11日には房総半島を台風がかすめ通ります。。さらにさらに14日には、沼津に台風が上陸し、甲府から群馬県西部にかけて通過。度重なる台風により関東一帯は集中的な豪雨に見舞われ、各地で土砂災害が発生。堤防は決壊し、荒川を含めた多くの河川は土砂・家屋、そして人のあらゆるものを飲み込みます。荒川は名実ともに「荒ぶれる川」と化し、当時の人達の生活を破壊しました。 死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸 南千住浸水の惨状 明治43年の大水害(1910年8月11日) | 災害カレンダー - Yahoo!天気・災害 明治43年(1910年)、東京下谷区の浸水状況 明治43年の大水害 - Wikipedia 東京での被害も凄まじく、水が引いて地面が見えるようになったのは12月になってからだったといいます。 とてつもない被害を目の当たりにし、明治政府は「臨時治水調査会」を設置し、荒川改修計画を策定。現在心霊スポットとして有名な”赤水門”(旧岩淵水門)も荒川による洪水被害を防ぐべく、1924年に着工し1924年に完成させました。現在では新しい”青水門”に役目を譲り、幽霊に出会える貴重なスポットとして重宝されています。 荒川放水路事業は、1913年~1930年まで17年の歳月をかけ、多くの犠牲者を出しながら完了。幅約500m、旧岩淵水門から中川河口までの全長22kmにも及ぶ荒川放水路の完成により旧岩淵水門から下流の「荒川」は隅田川と名前を変え、現在では荒川放水路が「荒川」として人々に親しまれています。 ・・・・・ ・・・・・ そもそも僕は数ヶ月前までは「荒川ってどこだっけ?・・・こっち?あっ、これは隅田川か・・・」ぐらいのレベルだったんで、隅田川が昔は「荒川」だったなんてことはほんの最近知りました。何回か隅田川と荒川放水路で釣りをしてきましたが、昔はあの水量を現隅田川一本で処理していたなんて信じがたいですね・・・・。実際ほぼ毎年のように氾濫が起きており、川沿いの民家屋根には船が常時設置してあったそうです。 我がツリーバ編集長も含め、荒川アングラーに「何か」を感じさせるのも、「荒ぶれる川」への恐・怖・畏のいろんなオソレを感じさせる荒川の歴史故なのかもしれません。 現在では整備も進んで関東大水害なんて事態は予想できないですが、そもそも災害は人の予想を超えて起きるものです。東日本大震災もそうだったように。 「荒ぶれる川」への敬意を忘れずも、楽しく荒川釣りを楽しみたいものですね。これからは拝んでから釣ります。 荒川よ、鎮まりたまへ。 洪水ハザードマップ - 東京都建設局 No Tsuri-ba! No Life!手は震え、動悸も止まらない釣りWebフリーマガジン