我々は絶対に忘れてはいけない。あの日から6年。今なお続く震災の傷跡。
どうもこんにちは!ツリーバ編集長のヒビヤです。
もうすぐあの大地震、東日本大震災から6年が経過しようとしている。
政府は早い段階で収束したかのような言いようであったが、何一つ解決していないのが現状であり、その中で被災者たちが自力で、逞しく少しずつ復興のために努力しているのだ。
一生忘れてはならない事だが、がんばろう!日本、遠く離れ安全に暮らしている我々は、この言葉のもつ意味が、力が、存在がどこか薄れてきているのではないだろうか。
当時ワタシはとある大手航空会社のWEBサイト運用に携わっており、羽田のオフィスにいる時にあの嫌な揺れがやってきた。
最初は小さく下からコツコツドドドドドドと小突き上げるような小刻みな振動がしばらく続いたかと思うと次には大きな横揺れに変わった。
耐震性の高い建物にいたのでパソコンが崩れ落ちるようなことはなかったが、あちこちで上がる女性の悲鳴、倒れるコート掛け、もはや業務どころではなく窓から外を見ると目視で直下の道路と1メートルは自分のいる建物がずれているのではないかと思うほどに揺れている。
駐車場で脚立に立って剪定をしている職人たちがどうなったのか、記憶がない。
長い揺れの地震が一旦収まったかと思いきや、また大きな揺れに襲われもはや立っている事もままならない。
余震が続く中オフィス内は混乱を極め、みな一斉に家族へと電話をかけるが一向につながらず、エントランスの公衆電話には長蛇の列ができていた。
デスクから滑走路越しに見えるお台場周辺のビルからは黒煙が上がり、東京湾を挟んだ千葉県のコンビナートからも激しく煙が上がっているのが見える。
羽田空港の敷地と言う陸の孤島におり、携帯はつながらない、唯一の業務PCからのネットもいろいろと制限があり見られるものは限られる。
一体何が起こっているのか。
この頃は毎週のように富津へと釣りに行っていた頃で、この時点ではまだ翌日に釣りに行けると思っていた。
業務の特性上、webサイトに掲載するお知らせやらお詫びやらを出さねばならないのだが、みな家族が心配で一刻も早く帰りたい。我々のプロジェクトマネージャーがメンバーを家に帰したいと客先で話をしたのだが、好きにしてくださいと一言言われたのみで判断ができず、とりあえず次から次へとやってくる業務をこなしていた。
「あぁそうですか」と帰ってしまえばいいのにと腹が立った。しかし交通網は全て止まり、徒歩以外では帰る方法がない事をこの時はまだ知る由もなかった。
業務中に仲間が持つ不安定なスマホのワンセグでニュースを見ると海なのに炎が上がっている映像が途切れ途切れで見ることができたのだが、音声も途切れ途切れで何か大変なことになっていることはわかったが、判然としない。
時間の経過とともにネットのニュースには津波や水死体の文字。短い津波の映像。ようやく事態がわかってきた。とんでもない事が起きている事が。
深夜3時頃まで業務を続けやっとひと段落したところで仲間全員、羽田空港からタクシーを拾うべくオフィスの外へと出たがそこで目にしたのはビル周辺のアスファルトが持ち上がり、割れ、大きな段差ができた凄まじい光景だった。
真っ暗な首都高湾岸線沿いをターミナルに向かって歩くが首都高は通行止めとなっており、不気味な静けさが漂っている。
疲労困憊の体を引きずってようやくターミナルに到着するが、なんとタクシーは168組待ち。とてもじゃないがこれでは乗れない。
始発の時間帯にモノレールが動き出すと言う情報を得て、ターミナルの中へ入ると我々と同じように行き場を失った方々が空港で準備された段ボールを敷き、毛布に包まり、睡眠をとっていた。
飲み物や非常食、毛布を提供され、これ以上何もできる事もなくワタシたちもそこで朝まで待つことになった。
この時余っているからどうぞと段ボールをわけてくれたおばさんの優しさに涙が出そうになったのを覚えている。
そんな状況の中で眠れるわけもなく、夜明けを迎えた頃にモノレールがようやく動きだし、大混雑するモノレールに乗り、みな無言で浜松町までなんとか辿りつくが動いている電車は地下鉄のみ。まるで生きる屍のようにぞろぞろと並んで地下鉄へと降りていく。
その時朝日を浴びた東京タワーの先端が曲がっている事に気が付いた。あんなものが曲がるものなのか。信じられない光景であった。
余震が続く中、都営浅草線に乗り、人形町から日比谷線に乗り換え、南千住まで行くことができたのだが、待てども待てどもタクシーが来る気配もなく、革靴で歩き家を目指した。
国道はいつも通り機能しているように見えるが、その一方で歩道には会社で支給された災害用のヘルメットをぶら下げて歩き家を目指すサラリーマンたち。
異様な光景ではるが、なんとなくホッとした気持ちでワタシもその列に混ざって歩いた。
見慣れた荒川もいつもとはどこか違って見えた。
途中にある家屋、屋根に後付なのだろう、パイプで組んだ屋上部分を乗せた家のその屋上部分が大きく傾き今にも落ちそうになっている。後に撤去されたが、あれが人の上に落ちていたら大事になっていたことだろう。
自宅が近づくにつれ安堵感から空腹を感じ、途中のコンビニに寄るがほとんど何にもない。妻も腹を空かしているだろうと、売れ残っていた沖縄そばのカップメンを買い、ようやく帰宅する事ができた。
空港を出発してから実に5時間。
さすがに釣りに行く気はなく、ビールを飲みながらテレビのニュースを見ていると各局とも被災地の映像、福島第一原発の様子を同じように伝えていた。
自分の家族の行方がわからないまま、救助活動に必死に立ち向かう人たち。
被ばくも覚悟した上で必死に原発をなんとかしようと奮闘する人たち。
何もかも失い途方に暮れる人たち。
報道されている以上にこれは大変な事態であると察した。なんと言っても原発が破壊されているのだ。軽く報道で伝えるような規模の話ではない。
我々世代であれば旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故を知っていると思うのだが、日本にいても雨に放射能が含まれているなどと言われたほどで子どもながらに恐怖に怯えたのを覚えている。
間違いなくそれと同等かそれ以上の事が起きていることは明確であった。
勤務先がインフラ系企業だからこそではあるが、そんな中でも我々の業務は止まる事がなく、週をまたいでも地震の影響で交通網は完全に麻痺。40分ほど歩いて別の駅から電車に乗りオフィスへと向かう日々が続いた。
この頃からあちこちで掲げられ始めたがんばろう!日本の文字。
もちろんその言葉通り頑張っている人たちがいる。
一方で掲げる事が活動の一環、目的となってしまっている大企業もある。そんな組織の渦の中でワタシだって何もしていないのだがらなんとも言えぬ気持ちでいっぱいであった。
都内のどこもかしこもインフラが止まり、ガソリンスタンドまでもが営業していない状態がしばらく続いていたが、落ち着きを取り戻してきた頃に富津へとメバル釣りをしに行った。
いつものポイントへ行くとひとりウキ釣りをしている釣り師がいた。珍しいおばちゃん釣り師だ。
宮城県出身で家族は助かったが、犬が津波に流されてしまったと話してくれた。富津でも津波の影響で水位が50センチほど上がったと聞かされ驚いた。確かに茨城に近い千葉県でも津波被害があったのはニュースで見ていたが、東京湾内にも影響があった事に驚いた。
後に聞いた話だが、荒川にも津波が上がってきたそうだ。
現在もまた別の棟でトラブルが見つかっており、最近ニュースになっている。今も必死に戦っている人たちがいる。
否定的な取材、報道が多いがそういった命をかけて苦労している人たちのおかげで遠く離れた我々も100%安心ではないかもしれないが、こうして生活ができているのだ。
10年以上前になるが、オートバイで東北の太平洋側をキャンプで転々としながら回った事があるのだが、宮城県には過去の津波時に水がここまで上がったと言う標識があちこちにあり、田んぼの真ん中に巨大な防潮堤が設置され、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。
あれを3.11の津波が乗り越え、破壊したのだ。
あの時キャンプ場で初物のサンマをごちそうしてくれたおじさんは大丈夫だったのだろうか。助かったのだろうか。
酒を調達した商店の子どもたちは。
魚を調達した魚やのおばちゃんは。
メディアが発展した現代において、この出来事は絶対に忘れてはならない。被災地や被災者に対する差別的な言動も絶対にあってはならない。
今一度我々はこの出来事を振り返り、見直し、見つめなおす必要があるのではないだろうか。
それでは今日も、No Tsuri-ba! No Life!
https://tsuri-ba.net/?p=2464https://tsuri-ba.net/wp-content/uploads/2017/03/66034279ba38a576ec1cdeb5b9d38741_s.jpghttps://tsuri-ba.net/wp-content/uploads/2017/03/66034279ba38a576ec1cdeb5b9d38741_s-150x150.jpg釣りTALK富津,東日本大震災どうもこんにちは!ツリーバ編集長のヒビヤです。 もうすぐあの大地震、東日本大震災から6年が経過しようとしている。 政府は早い段階で収束したかのような言いようであったが、何一つ解決していないのが現状であり、その中で被災者たちが自力で、逞しく少しずつ復興のために努力しているのだ。 一生忘れてはならない事だが、がんばろう!日本、遠く離れ安全に暮らしている我々は、この言葉のもつ意味が、力が、存在がどこか薄れてきているのではないだろうか。 当時ワタシはとある大手航空会社のWEBサイト運用に携わっており、羽田のオフィスにいる時にあの嫌な揺れがやってきた。 最初は小さく下からコツコツドドドドドドと小突き上げるような小刻みな振動がしばらく続いたかと思うと次には大きな横揺れに変わった。 耐震性の高い建物にいたのでパソコンが崩れ落ちるようなことはなかったが、あちこちで上がる女性の悲鳴、倒れるコート掛け、もはや業務どころではなく窓から外を見ると目視で直下の道路と1メートルは自分のいる建物がずれているのではないかと思うほどに揺れている。 駐車場で脚立に立って剪定をしている職人たちがどうなったのか、記憶がない。 長い揺れの地震が一旦収まったかと思いきや、また大きな揺れに襲われもはや立っている事もままならない。 余震が続く中オフィス内は混乱を極め、みな一斉に家族へと電話をかけるが一向につながらず、エントランスの公衆電話には長蛇の列ができていた。 デスクから滑走路越しに見えるお台場周辺のビルからは黒煙が上がり、東京湾を挟んだ千葉県のコンビナートからも激しく煙が上がっているのが見える。 羽田空港の敷地と言う陸の孤島におり、携帯はつながらない、唯一の業務PCからのネットもいろいろと制限があり見られるものは限られる。 一体何が起こっているのか。 この頃は毎週のように富津へと釣りに行っていた頃で、この時点ではまだ翌日に釣りに行けると思っていた。 業務の特性上、webサイトに掲載するお知らせやらお詫びやらを出さねばならないのだが、みな家族が心配で一刻も早く帰りたい。我々のプロジェクトマネージャーがメンバーを家に帰したいと客先で話をしたのだが、好きにしてくださいと一言言われたのみで判断ができず、とりあえず次から次へとやってくる業務をこなしていた。 「あぁそうですか」と帰ってしまえばいいのにと腹が立った。しかし交通網は全て止まり、徒歩以外では帰る方法がない事をこの時はまだ知る由もなかった。 業務中に仲間が持つ不安定なスマホのワンセグでニュースを見ると海なのに炎が上がっている映像が途切れ途切れで見ることができたのだが、音声も途切れ途切れで何か大変なことになっていることはわかったが、判然としない。 時間の経過とともにネットのニュースには津波や水死体の文字。短い津波の映像。ようやく事態がわかってきた。とんでもない事が起きている事が。 深夜3時頃まで業務を続けやっとひと段落したところで仲間全員、羽田空港からタクシーを拾うべくオフィスの外へと出たがそこで目にしたのはビル周辺のアスファルトが持ち上がり、割れ、大きな段差ができた凄まじい光景だった。 真っ暗な首都高湾岸線沿いをターミナルに向かって歩くが首都高は通行止めとなっており、不気味な静けさが漂っている。 疲労困憊の体を引きずってようやくターミナルに到着するが、なんとタクシーは168組待ち。とてもじゃないがこれでは乗れない。 始発の時間帯にモノレールが動き出すと言う情報を得て、ターミナルの中へ入ると我々と同じように行き場を失った方々が空港で準備された段ボールを敷き、毛布に包まり、睡眠をとっていた。 飲み物や非常食、毛布を提供され、これ以上何もできる事もなくワタシたちもそこで朝まで待つことになった。 この時余っているからどうぞと段ボールをわけてくれたおばさんの優しさに涙が出そうになったのを覚えている。 そんな状況の中で眠れるわけもなく、夜明けを迎えた頃にモノレールがようやく動きだし、大混雑するモノレールに乗り、みな無言で浜松町までなんとか辿りつくが動いている電車は地下鉄のみ。まるで生きる屍のようにぞろぞろと並んで地下鉄へと降りていく。 その時朝日を浴びた東京タワーの先端が曲がっている事に気が付いた。あんなものが曲がるものなのか。信じられない光景であった。 余震が続く中、都営浅草線に乗り、人形町から日比谷線に乗り換え、南千住まで行くことができたのだが、待てども待てどもタクシーが来る気配もなく、革靴で歩き家を目指した。 国道はいつも通り機能しているように見えるが、その一方で歩道には会社で支給された災害用のヘルメットをぶら下げて歩き家を目指すサラリーマンたち。 異様な光景ではるが、なんとなくホッとした気持ちでワタシもその列に混ざって歩いた。 見慣れた荒川もいつもとはどこか違って見えた。 途中にある家屋、屋根に後付なのだろう、パイプで組んだ屋上部分を乗せた家のその屋上部分が大きく傾き今にも落ちそうになっている。後に撤去されたが、あれが人の上に落ちていたら大事になっていたことだろう。 自宅が近づくにつれ安堵感から空腹を感じ、途中のコンビニに寄るがほとんど何にもない。妻も腹を空かしているだろうと、売れ残っていた沖縄そばのカップメンを買い、ようやく帰宅する事ができた。 空港を出発してから実に5時間。 さすがに釣りに行く気はなく、ビールを飲みながらテレビのニュースを見ていると各局とも被災地の映像、福島第一原発の様子を同じように伝えていた。 自分の家族の行方がわからないまま、救助活動に必死に立ち向かう人たち。 被ばくも覚悟した上で必死に原発をなんとかしようと奮闘する人たち。 何もかも失い途方に暮れる人たち。 報道されている以上にこれは大変な事態であると察した。なんと言っても原発が破壊されているのだ。軽く報道で伝えるような規模の話ではない。 我々世代であれば旧ソ連のチェルノブイリ原子力発電所の事故を知っていると思うのだが、日本にいても雨に放射能が含まれているなどと言われたほどで子どもながらに恐怖に怯えたのを覚えている。 間違いなくそれと同等かそれ以上の事が起きていることは明確であった。 勤務先がインフラ系企業だからこそではあるが、そんな中でも我々の業務は止まる事がなく、週をまたいでも地震の影響で交通網は完全に麻痺。40分ほど歩いて別の駅から電車に乗りオフィスへと向かう日々が続いた。 この頃からあちこちで掲げられ始めたがんばろう!日本の文字。 もちろんその言葉通り頑張っている人たちがいる。 一方で掲げる事が活動の一環、目的となってしまっている大企業もある。そんな組織の渦の中でワタシだって何もしていないのだがらなんとも言えぬ気持ちでいっぱいであった。 都内のどこもかしこもインフラが止まり、ガソリンスタンドまでもが営業していない状態がしばらく続いていたが、落ち着きを取り戻してきた頃に富津へとメバル釣りをしに行った。 いつものポイントへ行くとひとりウキ釣りをしている釣り師がいた。珍しいおばちゃん釣り師だ。 宮城県出身で家族は助かったが、犬が津波に流されてしまったと話してくれた。富津でも津波の影響で水位が50センチほど上がったと聞かされ驚いた。確かに茨城に近い千葉県でも津波被害があったのはニュースで見ていたが、東京湾内にも影響があった事に驚いた。 後に聞いた話だが、荒川にも津波が上がってきたそうだ。 現在もまた別の棟でトラブルが見つかっており、最近ニュースになっている。今も必死に戦っている人たちがいる。 否定的な取材、報道が多いがそういった命をかけて苦労している人たちのおかげで遠く離れた我々も100%安心ではないかもしれないが、こうして生活ができているのだ。 10年以上前になるが、オートバイで東北の太平洋側をキャンプで転々としながら回った事があるのだが、宮城県には過去の津波時に水がここまで上がったと言う標識があちこちにあり、田んぼの真ん中に巨大な防潮堤が設置され、どこか不気味な雰囲気が漂っていた。 あれを3.11の津波が乗り越え、破壊したのだ。 あの時キャンプ場で初物のサンマをごちそうしてくれたおじさんは大丈夫だったのだろうか。助かったのだろうか。 酒を調達した商店の子どもたちは。 魚を調達した魚やのおばちゃんは。 メディアが発展した現代において、この出来事は絶対に忘れてはならない。被災地や被災者に対する差別的な言動も絶対にあってはならない。 今一度我々はこの出来事を振り返り、見直し、見つめなおす必要があるのではないだろうか。 それでは今日も、No Tsuri-ba! No Life!tsuri-ba日比谷 泰宏info@tsuri-ba.netAdministratorツリーバ
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